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ちょっと以外な中国茶の歴史とは?その3

ちょっと以外な中国茶の歴史とは?その3

中国からヨーロッパへお茶の風習が拡大!

民の時代になると、お茶のつくり方に変化が訪れます。

それは、釜で炒ってつくる製造方法が誕生しました。

これによって、炒青茶(しょうせいちゃ)という種類のお茶が登場しました。

民の時代の終わりごろにおける上流社会では、

武夷岩茶(ブイガンチャ)の人気が高まり、

同時期には発酵茶の一つである紅茶も徐々につくり始めるようになりました。

また、この時代では、

江西省にある景徳鎮(ケイトクチン)という場所に窯が開かれたことによって、

茶器に対していろいろなこだわりが出始めるようになりました。

特に、江蘇省にある宜興(ギコウ)の茶壺(チャコ)に対する人気が急上昇したと言われています。

一方、1600年代に突入すると、

中国で生まれたお茶の風習がヨーロッパへと拡大していき、

次第にヨーロッパの人々にとっての欠かせない飲み物となっていきます。

アヘン戦争で中国茶が絶滅!?

清の時代(1616~1912年)に入ると、

中国の主要都市に次々と茶館や茶楼が増え始め、

広東省(かんとんしょう)では、現在の喫茶文化が誕生しました。

これによって、さらに中国全土で喫茶文化が発達していきます。

そして、ヨーロッパに対して茶葉の輸出も始まったことから、

イギリスでは紅茶の文化が色濃くなっていき、

イギリスの人々にとって、

紅茶という飲み物はもはや欠かせない存在へと成長していったのです。

ところが、当時イギリスではお茶の貿易において、

銀の流出を防止するために、

インドのアヘンを輸出してお茶を輸入するスタイルを取り入れたのです。

一方、中国側ではアヘンの輸入を禁止していたことから、

これによってアヘン戦争(1840~1842年)が起こってしまいます。

そして、アヘン戦争により清朝が崩壊への一途をたどり、

その後北京条約によってドイツやイギリスが、

中国茶の貿易の権限を握るようになっていきました。

これらの影響によって、

中国茶の輸出はだんだん減少していってしまい、

中国にある茶畑なども徐々に姿を消していきました。

中国茶の輸出が復活したのは?

中華人民共和国が成立した後、

政府では新たに中国茶の栽培に力を注ぐようになりました。

故毛沢東(モウタクトウ)による、

「山の斜面に茶畑を開くべし」

という号令が出されると、

中国茶の生産高は1950年代の終わりごろから爆発的に伸び始めたのです。

中国茶の革新的な製造技術と茶畑の拡大によって、

特に日本でもお馴染みのウーロン茶人気が高まり、

世界中でも消費が増加していったのです。

さらに、台湾においてもお茶の栽培が発達していきました。

このようにして、一時期はアヘン戦争により、

中国茶の存続が少し危ぶまれていましたが、

政府による施策が始まったことで、

再び中国茶は世界的に親しまれるようになりました。

尚、現在の中国茶におけるメジャーな種類のお茶と言えば、緑茶が挙げられます。

海外で開かれるお茶のコンクールにおいては、

数多くの中国緑茶が受賞しており、

世界のお茶愛好家を釘付けにしているようです。


【参考文献】大森正司(2002)『からだにいいお茶のすべて』日本文芸社.

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